日本企業の成長の鍵は、学術研究と実務の融合にある

広告主、メディア、広告会社、クリエイティブ、アカデミア。それぞれ異なる専門性を持つプロフェッショナル同士の交流と議論を生み出し、分断のない全体最適なマーケティングの実現を目指すBORDERLESS MARKETING COMMUNITY(BMC)。そのコミュニティの会員が一堂に会する定期イベントの第2回が2022年6月15日(水)にオンラインで開催された。

イベントは、各領域の有識者が登壇する「基調講演」と、登壇者と参加者双方向のコミュニケーションを通じてテーマに関する実践的な知見を創出する「ラボ」の二部構成で行われた。本記事では、基調講演の内容の一部をレポートする。

第2回BMCイベント登壇者

【登壇者】

慶應義塾大学 経済学部 教授/慶應義塾大学経済研究所 所長

星野崇宏(ほしの・たかひろ)氏

2004年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。博士(経済学)。情報・システム研究機構統計数理研究所、東京大学教養学部、名古屋大学大学院経済学研究科などを経て、慶應義塾大学経済学部教授。シカゴ大学客員研究員、ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院客員研究員などを歴任。行動経済学会会長。マーケティング・サイエンス学会理事。国内のAI研究の中心的な研究機関である理化学研究所AIPセンターにおいて、AIの経済経営研究への応用を行うチームのリーダーを兼務するほか、複数の民間企業の技術顧問も務める。45歳未満の研究者に政府が授与する最も権威のある賞「日本学術振興会賞」を受賞(2017年)。ほかに日本統計学会研究業績賞など受賞多数。近著に『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています。』(日経BP)など。

※聞き手:

サイカ 代表取締役CEO 平尾喜昭氏

※当日の内容を一部抜粋して記載します

 

学術研究と実務を隔てるボーダーを超えろ

今回の基調講演には、「アカデミア」の立場でBMCの理事を務める、慶應義塾大学の星野崇宏教授が登壇した。

星野教授は、統計学・計量経済学・心理学の基礎研究と、それら研究のマーケティング・脳科学・公衆衛生といった分野への応用研究を行っている。また、IT・通信をはじめとする様々な業種の民間企業と協業して、学術研究を実務に活かす取り組みを積極的に進めている。学術領域の垣根、そして学術研究と実務の垣根を超えて活動する、まさに「ボーダーレス」を体現する人物の一人と言える。

星野教授がBMC会員をはじめとする日本企業に向けて提言するのは、「ビジネスサイエンス」を実務の現場で最大限に活用することだ。

ビジネスサイエンスとは、経済学・経営学・マーケティングサイエンスなど、ビジネスに深く関わる学問を指し、複数の分野の研究を融合させながら、実務において生じる様々な問題の解決に取り組むことができる。

マーケティング施策の効果を最大化したい。収益性を高めたい。企業価値を高めたい。これらを実現するために、どんな意思決定をすべきか?――ビジネスサイエンスは、それを考えるための知見の宝庫なのだという。

というのも、ビジネスパーソンが日々直面する課題の中には、すでに膨大な数の研究が行われ、最適解が明らかになっているものが少なくない。例えば次のような問いには、研究によって導き出された一定の“正解”が存在する。

  *Webサイトを訪問した顧客に対してリターゲティング施策を打つ最適なタイミングは?

  *営業パーソンのパフォーマンスを最大化するために最適な報酬とノルマの設計は?

星野教授は「皆さんが抱えている課題が“人類史上初の課題”である可能性は極めて低いです。大抵の課題は、過去に同じように悩んだ人が大勢いるのです。その課題の解決策、特に再現性ある形で突き詰められた知見がすでに存在するのですから、それを活かさない手はないでしょう」と、ビジネスサイエンスの有用性を強調する。

星野教授によれば、欧米のビジネススクールには各分野の優秀な学者が集まって分野横断型の研究を当たり前のように行っており、長年にわたって蓄積された膨大な研究成果が経営やマーケティングの課題解決に有効活用されているという。一方で日本国内では、ビジネスサイエンスの知見がほとんど知られておらず、活用も進んでいないのが現状だ。

「学知を有効活用すれば、“必ず”とまでは言えないにせよ、非常に高い確率で成果を得ることができるのに……現状はあまりにもったいなく、歯痒い思いがしています」(星野)

星野教授

その施策、実は利益相反しているかも?

ビジネスサイエンスへの理解が不足していると、どんな問題が生じるか? この問いかけに対し、星野教授は「自社の利益を毀損するような意思決定や活動をしてしまう可能性が高くなる」と答える。

企業である以上、スコープが短期か長期か、また利益還元の対象として株主/従業員/顧客/一般社会のいずれを特に重視するかという重みづけこそ異なっても、「ステークスホルダーの利益を最大化する」ことは共通の目標であると言える。

しかし実際には、利益に相反する意思決定をしているケースが少なくないという。そして、ビジネスサイエンスを有効活用することは、そうした誤った意思決定を防ぐことにつながると、星野教授は説明する。

「利益創出の観点で自社の課題を特定し、具体的な施策に落とし込み、施策ごとにKPIを設定する。そのKPIを達成しながら、利益の最大化を目指す。これが本来あるべき姿ですよね。ところが、利益を最大化することを念頭に置かず、“どこかの誰かが重要と言っていた”KPIを設定して部門ごと・業務ごとに個別最適化し、一向に利益が上がらないという残念な状態に陥っている企業をよく見かけます」(星野)。

利益を最大化するために何を最適化すべきかは、業種・業態や事業フェーズ、競合環境など様々な条件に依る部分もあるものの、ビジネスサイエンスの膨大な学知によって実証できていることが非常に多いという。

星野教授は、その学知が実務に活かされている例として、運用型Web広告の入札において、クリック率やコンバージョン率向上を目指す従来型の入札ではなく、獲得したユーザーの生涯顧客価値(LTV)に基づく『LTV-Based Bidding』が実用化され始めていることにも言及した。LTVは長期にわたりその顧客が自社にもたらしてくれる利益であり、クリック率などのKPIと異なり利益に直結するという。

また、利益を最大化するために優先して取り組むべき施策は何か? をビジネスサイエンスの学知を踏まえて検討・意思決定できれば、自社の利益を毀損するリスクのある2つの“罠”を避けることも可能だという。

一つは、いわゆる「プリンシパル・エージェント問題」。プリンシパル(依頼人)の利益のために動くことを委任されているはずのエージェント(実行者)が、プリンシパルの利益に反しエージェント自身の利益を優先して行動してしまうことを指す。

広告会社やマーケティングコンサルティング会社、システム開発会社といった様々なパートナーと連携して業務・プロジェクトを進めるビジネスパーソンは、この問題を回避するためのリテラシーとしても、ビジネスサイエンスを身につけるのが有効と言える。

もう一つは、“新しい”ビジネス・マーケティング理論によって、意思決定がミスリードされる問題だ。特にマーケティング領域では次々と新しい概念や方法論が提唱され、そのたびに言葉だけが独り歩きすることも多く、何をどの程度重視していいかわからず悩んでいる人も多いのではないだろうか。

星野教授は「そうした新しい理論の中には、過去にすでに研究され、学知として体系立てられている理論の一部を切り取り、単純化しているものが多くあります。わかりやすく整理されていることは良い面もありますが、関連する多くの周辺情報が切り捨てられているために、実務に活かそうとすると様々な弊害を生む可能性があることは、あまり知られていません」と指摘する。

提唱される理論を正しく受け止め、適切に実務で活かすためのリテラシーとしても、ビジネスサイエンスは有用と言えそうだ。

星野教授と平尾理事

多くの企業は、施策のROIを正しく評価できていない

ビジネスにおいて、データに基づく意思決定を重視する機運が高まっている昨今。企業がデータドリブンなビジネス・マーケティングを正しく実行する上でも、ビジネスサイエンスが役に立つと、星野教授は指摘する。

というのも、「施策の投資対効果(ROI)」を正しく測定・評価することができないビジネスパーソンが非常に多いのだという。

ROIを算出する数式は「施策実施による利益増加分÷施策実施にかかるコスト」と、非常にシンプルな数式で算出することができる。問題は、分子の「施策実施による利益増加分」は、本来的には、施策実施時の利益から施策未実施時の利益を引かなければならないという点にある。ところが実際のところ、未実施時の利益を観測することは非常に難しい。

「しかしその問題の解決策も、膨大な研究を経てすでに一定の答えが出ているのです。EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング:証拠に基づく政策立案)においても、そうした研究によって導き出された方法に則り、政策の効果を評価しています」(星野)。

星野教授は、スマートフォンゲームアプリの開発会社と協働で「テレビCMがアプリの起動回数や起動時間に与える影響」を調べた実験を例に挙げ、施策の効果を評価する際の落とし穴について説明した。

「CMに接触したグループと接触していないグループを単純に比較すると、接触グループのほうがアプリの起動回数・秒数が少ないという結果が出ます。もしこれを鵜呑みにすると、CMは効果がないどころか、むしろ悪影響があるという結論になりかねません。しかし注意すべきは、非接触グループは、そもそもスマホゲームをよくプレイしている(ゆえにテレビを見ていない)可能性が高いということ。逆に接触グループは、そもそもテレビをよく見る(ゆえにスマホゲームの起動時間が短い、あるいはプレイしていない)可能性が高い。つまり、実験結果によって明らかになったのはCMの効果ではなく、対象者の違いでしかない可能性があるのです。本来は、同じ人に対して、CMを見せた場合と見せなかった場合の差異を見なければ正しい効果を把握することはできません」(星野)

調査や測定においてどんな問題が生じ得るかを理解していれば、調査方法を適切に設計することができ、導き出されたデータをもとに施策の効果を正しく評価することができる。

こうした、調査~データ分析~効果評価についても、正しい方法や留意すべきポイントが学術研究の成果として体系的にまとめられている。ビジネスの基本とも言える「正しいROIを測定し、PDCAを回す」ことにおいても、ビジネスサイエンスは有効なのだ。

星野教授

ビジネスサイエンスは、マーケティング人材のキャリアも拓く

先述したとおり、ビジネスの現場において、データに基づく意思決定を重視する機運が高まっている。これに伴って、データサイエンスやAIのスキル習得にビジネスパーソンの熱い視線が注がれているのも、昨今の特徴的な動向といえる。

しかし、データ解析そのもの以上に重要なのは、「この施策はこんな効果を得られるのではないか」という仮説設定や、「施策の結果、なぜこの現象が生じたのか」という考察だと、星野教授。それが適切に行われなければ、せっかくのデータ解析も有用なものにならないと指摘する。

そこで役立つ学問として、星野教授は、自身が特に関心をもって研究を進めている分野である「行動経済学」を挙げた。

行動経済学は、経済学の数学モデルに心理学的に観察された事実を取り入れることで、人間の経済行動をより現実に即して分析・予測する学問だ。以下に列記したのは、マーケティングの現場でしばしば話題になりそうなトピックばかりだが、いずれも行動経済学を軸にした学術研究によってすでに最適解が導き出されている。

  *ポイントをインセンティブとした会員登録キャンペーンにおける最適なメッセージ文言

  *Web広告の最適なフリークエンシー(表示回数・頻度)

  *最も利用率が高くなる、オンラインクーポンの配信先

  *チェーンストアにおける最適な価格設定

星野教授は複数の民間企業と協業して、リアルワールド=実務の現場をフィールドに様々な実験を行い、行動経済学をはじめとするビジネスサイエンスを実務に活かす取り組みを進めている。

日本企業におけるビジネスサイエンスの活用はまだまだ発展途上と改めて強調した上で、一部の企業では、学知を活かした既存施策の改善や、新規施策の検討に向けた実証実験が積極的に行われていることを紹介した。

「ある小売り企業とメーカー数社が連携して、実店舗をフィールドに実証実験を繰り返し、データに基づく販促戦略・施策の最適化にチャレンジしている例があり、国内においては非常に先進的な動きとして期待しています。また、そのプロジェクトは若手社員が積極登用されていて、人材育成につながっている点も素晴らしいと感じています」(星野)。

自分自身の数少ない成功体験に基づく再現性に乏しい意思決定を行っているケースまだまだ多い中、ビジネスサイエンスの膨大な研究成果に基づく再現性の高い戦略を構築・実行できる人材は、多くの日本企業において重宝されるはずだと、星野教授は指摘する。だからこそ、実務の現場でビジネスサイエンスを実践できる環境を若手人材に開放する取り組みに対し、大きな期待を寄せているのだ。

変化が激しく先行き不透明な時代、ビジネスサイエンスを活用して安定的に成果を出し続けることができるマーケティング人材は、ますます引く手あまたになるだろう。実際、成果につながる法則を型化し、業種業態や扱う商材が変わっても成果を出せる人材は、特定の企業に所属せず、フリーのマーケティングコンサルタントとして広く活躍するケースも見られ始めている。また、再現性のある戦略構築力は経営にも求められるものであり、CMOを目指せる人材も今後増えていくかもしれない。

星野教授は「日本でも欧米のように学術研究と実務の間にあるボーダーを超え、ビジネスサイエンスに基づく意思決定ができるようになれば、マーケティング人材のキャリアの可能性は大きく広がっていくはずです」と展望を語り、講演を締めくくった。

星野教授

第2部「ラボ」にて、参加者から寄せられた質問

星野教授の講演後に行われた第2部の「ラボ」では、イベントに参加した会員からさまざまな質問が寄せられ、登壇者と意見交換を行った。ここでは、会員から寄せられた質問の一部を抜粋して掲載する。

 

「ビジネスサイエンスやマーケティングサイエンスについて学ぶには、何から始めたらよいか」

「マーケティング戦略を描く際のKPIの立て方や施策について、海外のトレンドを知りたい」

「短期利益を最大化するために長期利益を毀損している施策が多いと感じているが、このトリックから抜け出すための方法論はあるか」

星野教授と平尾理事